2013年01月23日

【吉野鬼行2012大晦日】序章「鬼と武士道」




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2012年の大晦日、実は私は一人奈良の吉野へ修行しに行っていた(笑)
前々から冬休みに京都か奈良の神社仏閣めぐりをしようと思っていたが、
ようやく、予定が回り回って2012年の最後の日に吉野の地へ入った。
世界遺産・奈良の吉野を選んだ理由は、以前からここのには習慣的に来ていて、
そして、写経の奉納や線香の購入など一家から頼まれた仕事もあったからだ。

この記事の本編が始まる前に「鬼と武士道」について語りたいと思う。
私の現在の最大の歴史的研究の氷山の一角をお見せしたいと思う。


冬休みに久々に書いた写経。
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吉野と言えば古来からの歴史があり、修験道の霊場として有名だ。
その歴史は古く古代の天皇家とも縁ゆかりがあり「古事記」「日本書紀」からの記述がある。
水銀の産地、また桜の名所として有名で、
2004年には吉野の霊場と参詣道が世界遺産に登録された。
それだけでも行く価値があり理由になるが、
私が吉野に行くのは家庭的事情から始まる。


我が家が吉野に行くようになったのは、
2003年頃からで知り合いの阿闍梨の霊能者の指導を受けて、
私の父上の前世が吉野でのたれ死んだので、吉野を参詣すると良いと言われたからだ(笑)
今考えるとアホらしい話だが、別に吉野に行って損をする事は無いので、
慣習的に我が家では良く頻繁に吉野に行っていた。

しかし、家族一家で行くのには限界があるので、
少し前から私が一人で行くようになった。
このブログの読者にも2009年10月と2010年6月に私が一人で、
吉野に参詣した事を記憶にとめている方も居るだろう。
そして、その度に今まで行かなかったようなマニアックなスポットなど、
私が深い場所に進んで行っていると言う傾向がある。
今回は吉野の奥の奥にまで行った。


2009年10月12日撮影。中2の頃。
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2010年6月20日撮影。中3の頃。
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このように一人での冒険旅も度々して来たが、
以前より、より深い探求をし歴史的な知識も深まり、
考証も深まったので、より実のある内容になっている事は断言する。

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そして、私が2012年最も愛好していた大河ドラマ「平清盛」に、
天然武将「源義経」も登場するが、吉野は何かと義経とゆかりが深い場所である。
実は義経と私もなにかとゆかりがあり、今回はシンクロも多かった。


2012年夏の京都サミットでも閣下と最初に合流した場所が、
義経と弁慶が最初に出会った場所とされる「五条大橋」だった。
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現在の五条大橋と義経の生きた平安末期とは場所が違うらしいが、
この近辺には義経と弁慶の像がある。


ドラマの義経と弁慶の五条大橋での出会い。
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源義経はよく英雄視されるが実際は、当時の戦でのルールを完璧に無視したり、
鎌倉幕府での掟を破ったりして、天才的な軍略を持つ武将であったが、
兄であり将軍・源頼朝にブチキレられて、追いつめられて、果てには東北で自害した。
この義経のあまりに、KYで型破りな言動は全て計算のうちだったのか、
それとも本当にアホだったのか?
私は両方の素質を合わせて義経の事を「天然武将」と呼ぶ事にする。


神木隆之介演じる源義経。
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実はこの俳優の神木隆之介は私と同じ誕生日(5月19日)で、
ジャスト2歳年上である(笑)
私はツイッターでこの大河ドラマ平清盛の源義経のbotを運営しており、
既に義経になりきって吉野紀行を載せてるので是非、ご覧あれ(笑)
https://twitter.com/ushiwaka_taiga


義経が兄の頼朝の鎌倉幕府軍に追われて吉野へ入ったのが、
旧暦の文治2年11月12日。
これを現在の西暦(グレゴリオ暦)に変換すると、
1186年12月31日になり、私が今回吉野に入ったのが2012年12月31日なので、
義経のジャスト826年ぶりに私は吉野へ入った事になる(笑)
これまた凄まじいシンクロとなってしまった(笑)


別に義経が好きな訳では無いが、こんなに重なってしまうと仕方がない(笑)
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ちなみに、義経の高祖父はミスター源氏こと源義家(みなもとのよしいえ)公であるが、
実は私の先祖も源義家公であり私も義経も義家の嫡流の血筋を同じくする、
源氏の御曹司である。言わば時代の離れた遠い親戚のようなものである。
そして、義経の幼名は牛若丸。私は牡牛座である(笑)

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この記事のタイトルは「紀行」をかけて「鬼行」としてあるが、
この鬼とはもちろん私の事である。この鬼についてもあらかじめ語りたい。

結論から言うと、義経と私の先祖にあたる武士としての祖は、
平安時代中期から始まった清和源氏だが、
源氏は鬼の一族
である。ゆえにその血をひく私は鬼なのである。

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歴史には常に表と裏が存在する。
鬼とは「表の存在」である天皇家を中心とするヤマト朝廷に服従しなかった、
まつろわぬ者として、「裏の存在」として生きた敗者、被征服民である。

と言うのが鬼の研究での定説であるが、私は少し視点を変えたい。
長い目で両者を見れば、この両者は敵同士であるが好敵手であると言える。
仲が悪い敵同士と言えばそうだが、お互いに切磋琢磨しあった結果が日本史とも言える。
日本の政権を獲得して来たのは常に表の存在の天皇家だが、
時として武士を中心とする「鬼」が政権を獲得する事も多かった。
鬼サイドも自ら天皇家に政権を譲り陰の存在としての道を歩んだのである。
ヤマト朝廷も鬼を根絶やしにする意図は無く、両者は時に争いお互いを成長させる。

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鬼であり武士である私は武士とは何か考える。
武士とは「従うこと逆らうこと」である。これは武士の生き方も示しているが、
これは武士はヤマト朝廷に服従したり、反乱を起こしたりする。と言う意味でもある。
おおざっぱに言えば「武士とは朝廷側と鬼側の中間に立つハーフ的な存在」である。
武家は元々天皇家だったが臣籍降下(皇族から民間への格下げ)をして武士となった。

鬼の本業はは鍛冶鉄工業である。何をもって一人前の国家としてみなされるか?
それは製鉄技術が自立できているか否かである。
戦争をする為の武器、建築など全ての国家維持には鉄工などの製鉄が必要である。
なのでヤマト朝廷は優れた製鉄技術を持った被征服民が反乱をしてくる、
可能性があるので弾圧し「鬼」として陰の世界に追いやったのである。
それだけに鬼は力を持った存在なので、ヤマト朝廷は早めに潰しにあたった。

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奈良県吉野の歴史は奈良時代から始まる。
吉野は水銀の産地であったが、この水銀も鍛冶鉄工には欠かせないものである。
奈良時代に修験道の開祖である役小角は吉野で開山した。
山伏に代表されるような修験者が持つ杖のようなもの(錫杖)は元々、
鍛冶鉄工の民が鉱山採掘に使った道具であると言う。
そう言う意味では役小角も「鬼」であると言えよう。

また、吉野と天皇家の縁は深く古事記や日本書紀にも、
歴代天皇が吉野の地へ訪れたと記されており、吉野に別荘(離宮)を持った天皇もいる。
だが、これは決して天皇が観光に吉野へ言ったのではなく、
吉野は元々は鍛冶鉄工、鉱山の重要拠点なのでヤマト朝廷の代表である天皇が、
その地を自ら押さえていたほど重要視されていた。と私は考えている。

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話を少し清和源氏に戻すが、源満仲は多田(現在の兵庫県川西市)を本拠地とし、
自らも多田満仲と名乗る事もあったが、この多田は豊富な鉱山があり、
鍛冶鉄工が行われており、これにより源氏一門が栄えたとも言われている。
そして、この多田での鍛冶鉄鋼業は昭和まで続くほど盛んだった。
また、源氏は鍛冶鉄工が盛んな場所を征服して力を付けたのである。


源満仲。
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鍛冶鉄工を征服した。と言うと一見、朝廷サイド側の人間の匂いがするが、
武士、特に源氏と言うのは実に面白く鬼サイドと朝廷サイドを渡り歩く存在なのである。
先程も言った通り武士とは鬼側と朝廷側の間を行く存在なので当たり前と言えばそうだが。
満仲を始めとして武士、源氏一門は鍛冶鉄工を征服して自らも鍛冶鉄工の力を手に入れた。
そうして、朝廷との絶妙な距離感を獲得し朝廷に従った鬼であると言えよう。

しかし、朝廷に従っているならばとても鬼とは言えない。
だが、源氏の歴史を見ていくと鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府。
朝廷の力を抑えて政権を獲得した歴代の幕府は全て源氏によるものである。
従うことで時に政権もを獲得する。
これこそが、私が言う「従うことと逆らうこと」の武士道である。

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この源満仲の息子に源頼光と言う人物がいるが、
源頼光と言えば鬼退治、酒呑童子の討伐などが有名である。
簡単に言えば京都の大江山を中心に鍛冶鉄工を行っていた、
酒呑童子を源頼光が討ち取り鍛冶鉄工を征服したのである。

なんで、そんなに鍛冶鉄工を武士は欲しがるのかと言うと、
これは当然の事で武士の使う刀、槍、弓、甲冑全て鉄で出来てるからである。
それらの重要ルートを確保する事は軍事組織にとって重要な事である。

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こうやって見ると頼光などの源氏の武士が思いっきりワルモノに見えて来るが、
始めは満仲、頼光などの清和源氏は武士と言うよりも臣籍降下された軍事貴族、
つまり始めは朝廷サイドの立場の人間としての色が濃かったのかもしれない。

しかし、これは武人としての定めだが戦った相手の血を浴びる事で、
相手の魂が自分自身にも吸収されていくものなのである。
つまり、源氏は最初は朝廷色が強かったが酒呑童子と戦う事で、
自らも鬼に多大な影響を受けて鬼としての色も濃くなったと言う事である。
人は食物の命を「頂く」ことで自らの骨とし血とする。
源氏も鬼を討伐しながらも憎んでいたのではなく命、ノウハウを有り難く頂いたのだ。
そうして、後に鬼が徐々に明るみの世界にでる土台を築いた。


源満仲と酒呑童子。
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武士は朝廷とは違い、鬼を朝敵として排斥、征服するのではなく、
武士とは朝廷の立場から鬼を討伐し、また自らも鬼の魂を手に入れたのである。
実は武士の魂である「日本刀」は鬼の製鉄技術の結晶なのである。
この日本刀が成立したのも、武士が徐々に力を付けていった平安中期と重なる。
武士の魂、日本刀。この話を掘り下げるには平安初期まで遡る必要があり、
将軍・坂上田村麻呂と蝦夷・アテルイの戦いの頃まで起源を有する。

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また鬼と朝廷、武士道の話を広げていこうではないか。
そして話を平安末期の義経の頃に進め戻す。


伝・源頼朝像。
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源義経の兄、源頼朝は征夷大将軍として鎌倉幕府を開き初の武士政権を実現した。
この頼朝と実に朝廷サイドと鬼サイドの性質を兼ね備えた人物であると言えよう。
頼朝は朝廷に士官し貴族的な教養を持っていたが、
彼の幼名は露骨に「鬼武者」と言う名前だった。
なので私は源頼朝を「初代・鬼将軍」として仰いでいる(笑)

征夷大将軍と言う役職は朝廷が蝦夷(鬼)を討伐するための、
軍隊のリーダーにつけた役職名であるが、
その鬼が征夷大将軍になったとしたならば面白い。
征夷大将軍として鬼・アテルイを討ったことで有名な坂上田村麻呂も、
ある意味、鬼の将軍だがまだ未完成な存在であった。
私が中三の頃に適当に名乗った鬼将軍の名も伊達ではなかった(笑)

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鬼の将軍とはまさしく武士を指している。
武士の子孫である私は、まさしく武士であり鬼の将軍だ。
鬼の将軍、武士とは朝廷と鬼の性質を兼ね備えた、
言うなれば統合した存在であると言える。
武士=朝廷+鬼」である。

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ミュージシャンのGACKT氏は、
武士=もののふ=者ノ不(人にあらざる者)=鬼」と言う面白い説を展開している。
しかし、これを掘り下げれば武士がモノノフと言われた理由が更に見えてくる。
モノノフの語源は古代の「物部氏」(もののべし)に由来すると言われている。
鬼の起源を更に古代にさかのぼれば、「出雲族」に行き渡る。
出雲族も鍛冶鉄工民として有名だが物部氏も出雲族を源流とする。
そして更に起源はスサノオ、アレクサンドロス、ヒッタイトにまでさかのぼる・・・


話せばキリがないのでさっさと義経と吉野に戻そう(笑)
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また義経の側近の弁慶の幼名は「鬼若」である。
また義経自身の幼名は「牛若」だがこの牛と言うのも鬼とゆかりがふかく、
鬼門とされる方角は東北、つまり艮(うしとら・丑寅)の牛と虎で、
一般的な鬼のイメージも牛と虎を足したものである。
スサノオもしばしば牛頭天王として信仰される。

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・・・と随分と前置きが長くなり、
いつの間にか前置きだけで一つの記事ができてしまった。
一言でまとめると「吉野は鬼と天皇の融合の地」なのだ。
後醍醐天皇などは吉野に皇居をおいたので単に吉野は鬼の地とは言えない。
私の一家に吉野がゆかり深いとされたのもそう言った背景が存在したからかもしれない。

こう言った視点で私の吉野紀行、いや吉野鬼行を見てもらえば、
より一層、楽しんでもらえると思う。


 


posted by 細川大将軍 at 21:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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