2014年12月21日

歴史人物絵画6 イメージとは真逆な戦国武将の素顔




今年も終盤にさしかかり、今年の歴史偉人絵画の総決算時となった。
実はこの前にも作品があるが、歴史時代的に同じものをまとめて発表する。


作成順こそ変動となったが先に、あの戦国武将たちを取り上げたいと思う。
戦国時代は自由競争社会だったので、資本主義社会に生きる現代人の多くが共感するのだろう。
私も戦国時代は、最も日本人が日本人らしい時代だったと思う。


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もちろん一番好きな時代は現代だが、
日本人の気質はただ単にお人好しなだけではなく、
勇猛果敢で狡猾なのも日本人の性質だと思う。
日本人といっても多民族なので、一概にその気質を表すことが出来ないが、
現代人が戦国武将に憧れる理由はある種、それを理想としているからではなかろうか。


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戦国武将はみな賢く優秀だった。
ある程度、賢くなければ死ぬし、アホだったらその人物評が歴史に残る。
実は現代人の多くの気質は、信長・秀吉・家康のタイプに大別できるのではなかろうか。
時代はその天下人の気質に反映され、時代の気質が天下人を創る。
私はどちらかというと秀吉タイプだが、あなたは誰のタイプに近いだろうか?





【本能寺の変 431年目の真実】
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これから紹介する絵画は、「本能寺の変は信長による家康暗殺計画だった!」とう仮説に基づく、
明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』をマンガ化したものである。
人物の肖像画はそこからピックアップしたものを掲載する。



武将たちの陰謀


@天正10年5月11日 安土城 密室。
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織田信長は天下統一を前に、四国攻めと中国大陸侵出を計画していた。
だがそれは、明智光秀を陥れ一族を滅亡に導くシナリオだった。

本能寺の変、20日前。危険人物・徳川家康討ちの密談が行われた。
信長は絶大な信頼を置く、光秀のみに計画を伝えた


織田弾正忠信長(48)
徳川を討て。本能寺茶会にて誘く。さすれば、東国平定は容易かろう。
(家康を倒せ。本能寺の茶会で誘き寄せる。そうしたら、家康のいる関東を奪えるからな。)

明智日向守光秀(67)
御意。亀山より馳せ参じまする。(是ぞ千載一遇の好機なり・・・)
(承知。京都の亀山城から本能寺にいきます。(これぞ絶好のチャンスだ・・・))



A天正10年5月14日〜17日 安土。
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本能寺の変 約17日前。家康歓迎の宴の後、光秀と家康が密談を行った。
斎藤利三と細川藤孝も同席。信長排除の利害が一致し、本能寺での謀反が決定。


徳川三河守家康(39)
明智殿、誠に感謝致す。伊賀を経て帰した後、甲信へ征き織田勢を駆逐せむ。
(明智さん、誠に感謝です。伊賀を経由して愛知に帰ってから、山梨と長野の織田軍を駆逐します。)

細川兵部大輔藤孝(48)
友の頼みとあらば。必ずや我らも加勢しよう…

光秀
唐入りなれば、我ら家臣団の危機。早暁、本能寺を囲む。
上様をお諌めする策は、是の他無し。
(中国大陸侵出が実現すれば、我々家臣団の危機です。夜明け前に本能寺を包囲します。
上様にご忠告する方法は、これ以外にはないのです。)



B天正10年6月2日 本能寺。
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本能寺の変。信長は家康に警戒されぬよう、側近のみ従えた。
だが明智の急襲になす術は無かった。
織田信長、下剋上に滅ぶ。

信長「余は、余自ら死を招いたな。



C天正10年6月3日 備中高松。
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本能寺の変、翌日。秀吉は細川氏と内通し密告から変を察知。毛利氏と和睦し京都へ向かった。


羽柴筑前守秀吉(45)
細川から報せは貰ろうた。あとは中国から引き返し、明智と戦るのみじゃ。
この事変を治め、天下を頂かにゃな。

(細川藤孝から情報は貰った。あとは中国地方から引き返して、明智と戦うだけだ。
この事変をまとめて、天下をとらねばならんな。)



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この説については、アメブロで詳しく解説している。
信長は自分で作った落とし穴にハマってしまったのだ(笑)
信長も光秀も家康も藤孝も秀吉も全員、裏切り者(笑)





登場する武将の名前は、昔のフルネームで苗字+官職名+諱になっている。
そしてセリフは少し難解だが、シンプルに単文でまとめてある。
この特色は、私の好きな『センゴク』(宮下英樹)という歴史マンガの影響をかなり受けている。


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武将たちの絵を描いて、それをスキャンで読み込んでパソコンに保存して、
コマやセリフやト書きなどは、パワーポイントで編集して作った。



信長の意図は、危険人物・徳川家康の本能寺での暗殺(家康が天下を狙っていることを見抜く)
光秀の意図は、信長の四国攻めと中国大陸侵出の阻止(長宗我部元親が親戚だから)
家康の意図は、生き残り。
藤孝の意図は、次の天下人についていくこと。
秀吉の意図は、次の天下人になること。





㉜織田弾正忠信長(おだ だんじょうのちゅう のぶなが)
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年齢設定:48歳
時代:室町・戦国時代末期〜安土桃山時代
属性:尾張の戦国大名・武将
用具:シャーペン
完成:2014年9月12日
モデル:ZERO閣下




やはりイケメンな信長

戦術に極めて老練」織田信長。
歴史人物絵画1で描いて以来、二度目の信長。
前作からは22年後の48歳の信長という設定。
この時から、わずか20日後に信長は本能寺の変で死ぬ事となる。

本能寺の変は信長による家康暗殺計画だった。
だから、わざと警備を手薄にして警戒されないようにしていた。
だがそこを明智光秀に突かれて、史実のようになった。
信長は「あやつ間違いなく天下を盗りよるわ」と思ったのだろう。
だから早々に家康を抹殺して、関東を手中に収めようとした。


今回はマンガ風のタッチである。
前作の様に写真を投影させて模写する技法は使用せず、
写真を見ながら模写する方法に切り替えている。
幾つかの絵画の制作により、自身の画力に一定の安定感がついたからである。



前作。桶狭間の戦い直前の信長。
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前作とはあまり変わらないが、前作をベースにしつつ老けさせている。
だが、信長は死の直前でも若々しいイメージがあるので、
そこまで老けさせてはいない。やはり信長はイケメンでなくては。

写真をそのまま写さないので自由度が上がった分、表情を工夫している。
まさに微笑みと野心を加えた「企み」の表情である。
また、絶大な信任をおく明智光秀との密会中という設定なので、
警戒心がなく、安心して光秀と話す信頼の表情も含む。


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やっぱり、信長はZERO閣下のイメージ。
大胆さと優しさを兼ね備えている人物である。
また、愛知と京都に縁があるという点でも共通しており、
世界征服を画策しているという野望も同じだ。


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ちなみに相違点を述べると、信長は酒があまり飲めなかったことだろうか。
しかも甘党。閣下は酒豪だった。下戸で甘党という特徴はヒトラーと同じである。

信長の魅力というのは、その生き様にワクワクし、
その勇姿に勇気を貰えることだろうか。



信長の肖像画といわれているものだが、現代人から見ても男前な顔立ちをしている。
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初期作品だが、下手なのでボツにした(笑)
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アバンギャルドな信長

衣装はこの肖像画(狩野永徳筆・大徳寺蔵)を元にしている。
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信長の三回忌の法要に向けて描かれた肖像画である。
あれ?全然、着物が違うじゃないか?



と思われるかもしれないが、実は裏面がこうなっているらしい。
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本当は左右比対称で派手な信長らしい衣装を着ている。
これを地味に描き直せたのが、法要を取り仕切った秀吉らしい。
秀吉は信長を地味な印象にさせ、自らを際立たせた。
いくら信長のことを尊敬していたとは言え、
新政権を建てた者が、前政権の支配者を悪評するのは歴史の通例である。



肖像画の裏地に残っていた本来の模様を再現した。
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これは肩衣(かたぎぬ)という服で、戦国時代の武士の公式な服だ。
しかも信長は、アシンメトリー(片身代わり)で緑と薄茶色という、
派手で豪快な肩衣を着ていた。大したファッションセンスである。
当時からみても、かなりアバンギャルド(前衛的)な衣装だっただろう。



しかもヒゲは上向きだったらしく、私はそれを再現した。
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常識人・信長

私が割と信長らしいと思う肖像画。
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私は信長のことを「最初の現代人」と呼んでいる。
発想が合理的で、現代人の我々からみても意外と常識的な考えを持つ人物なのだ。
信長は1から発想をした人ではなく、1×1を無限にしていった人だったと思う。
戦国時代だと非常識だったかもしれないが、現在の常識ではマトモな発想が多い。
エピソードは推挙しきれいない。




実は残虐じゃない信長

信長はよく残虐と評されるが、もしそうだったら戦国武将は皆、残虐である。
延暦寺の焼き討ち虐殺は存在せず、仏教勢力による信長へのネガティブ・キャンペーンか、
信長自身が世に示した威嚇・牽制をするための印象操作だったのかもしれない。

確かに、長島一向一揆の際に織田軍により何万人も虐殺されたが、
だからといって、信長個人が残虐な性格だということにはならない。
むしろ、残虐な処刑を行ったのは家臣の前田利家だったらしい。
また一向宗の事情を知れば、信長じゃなくても虐殺するほどのヒドさだったことがわかる。


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信長さんは優しい

それどころか実は信長は優しい。
当時の常識では考えられないぐらいに。信長は何度も裏切られているが、
むしろ優しすぎてナメられていたんじゃないかと思うぐらいである。
信長は冷酷なイメージがあるが、むしろかなり寛容な人物である。

通常なら、一回でも自分のことを裏切り命を狙った者なら処断するのが、
戦国武将にとっての常識のようなものだったが、
信長は何度、裏切られても許しているのだ。
具体的な回数で言えば、信長は二回裏切っても許してくれる。
部下のとんでもないミスも2回まで許している。


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弟の織田信行、足利義昭、松永久秀、荒木村重、浅井長政が、
信長のことを何度も裏切っているが、いずれも信長は許した。
その名の通り、信長は人を長く信じる性格だったのだろう。
だからこそ人を最後まで信じたかったし、出来れば疑いたくない。
その信長の優しさで本能寺の変を誘発してしまったのも事実だが…

きっと信長なら光秀の謀反を許しているだろう。
仮に本能寺の変で死んでいなくても、光秀を許して再び重臣として登用しただろう。




意外に和風な信長

信長は西洋甲冑や洋服を着ていたイメージがあるが、それはまずない。
そもそも信長の南蛮かぶれのイメージは、黒澤明の映画『影武者』が最初である。
信長の時代は、あまり海外モノが入って来ていなかった。
むしろ秀吉はスリッパを常用していて、家康は鉛筆を使っていた。



黒澤明の影武者から信長=洋装のイメージが蔓延した。
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信長のシェフに至ってはブーツを履いている(笑)
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甲冑研究家のさえもん氏の描いた信長の軍装想像図。
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下手な西洋甲冑よりも、こっちの方がカッコ良いと思う。
総見院蔵の兜鉢に黒鳥毛陣羽織、紅糸縅壺袖を着用しているらしい。
安土桃山時代のファッションリーダーに相応しい。



馬揃え(ファッションショー&パレード)の時の信長の装束。
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銅像でいえば、清洲城にある信長像が顔といい甲冑といい、
最も私のイメージする信長に近い。

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信長の野望 世界征服版

もし信長が本能寺の変で死なずに長生きしていたら?
私が推測するに、信長は世界戦争を起こしていただろう。
中国を始めとするアジアを統治下に置く。その後は更に西に進出しただろう。

おそらく、プレスター・ジョン伝説を宣教師から聞いて知っていたので、
信長は「我こそはプレスター・ジョンなり!」と言って、
聖地エルサレムを奪還するために、イスラーム国であるオスマン帝国と戦い、
西洋諸国にとっての救世主=キリストとなるべく活躍していたと思う。
恐ろしくぶっ飛んだ話だが(笑)


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信長の南北朝統一計画

信長は朝廷を見下していたのは事実だが、滅ぼすつもりまではなかった。
結果的に信長は朝廷にも殺されているのだが、信長は朝廷との共存を画策していた。
一体、信長は朝廷をどうしたかったのか?
これは完全に私の仮説なのだが、それは「南北朝迭立」だろう。

話は南北朝時代から室町時代にまで遡るが、南北朝の分裂から和解に向けて、
足利義満により「南北朝合一」と「両統迭立 」がなされた。
だがこれは北朝有利の協定であり、南朝側は没落していった。


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事実、信長は南朝側の出身であったといわれている。
息子に北畠や神戸といった南朝側の一族の名を名乗らせている。
信長は南朝の復権を狙っていたのだ。
だから、北朝である当時の正親町天皇から官位を授からなかったり、
自身が天主から見下ろす形で、天皇を安土へ招く計画をたてたりした。

だが、信長は北朝を滅ぼすつもりはなく、
折衷的に真の南北朝合一、両統迭立 を考えていたのだ。
歴史区分にとらわれず、長い目で日本史を見つめた結果、生まれた仮説だ。




昔のフルネームは長い

「織田弾正忠信長」と今回は名前がやたら無いが、これが昔のフルネームである。
苗字+官職名+諱という感じ。昔の呼び名はほとんど、官職名で呼ばれることが多い。
例えば、信長なら「弾正忠殿!」といった感じが多く、
諱、つまり下の名前で「信長殿!」というのは失礼にあたる。これを避諱という。
織田殿でもアリだが、やはり個人名は官職名で呼ばれることが多かった。

ちなみに弾正忠とは、今で言うと警視総監みたいな感じである。
だが戦国時代の官職とは、ただの箔で実質的意味はほとんどなかった。


信長についても書いたアメブロの記事『戦国と火の魔王』を参照。




信長の脳診断

うさうさ脳タイプの診断』という脳診断のサイトがある。
人間の脳を4パターンに分析しており、かなり信頼をおける診断である。
ここに登場する武将は、どのタイプに当てはまるかを検証してみたいと思う。


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信長は、ささ男(インプット=左脳、アウトプット=左脳)だろう。
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情報の収集や分析を熱心に行ない、情報の穴による間違いを恐れる」や、
理想は高く常に完成型を求める」、と言ったところが、
信長の性格と共通している気がするからである。
まさに合理主義者な経営者タイプか。

また「人の感情を読み取るのが苦手」「融通のきかないタイプにみられることも」というのも。
もし信長が現代に生きていたら?
ブラック企業の社長…いや、外資系企業のトップになっていただろう。


また信長の血液型はA型と推測されている。確かに、性格的にそんな気がする。
ちなみにヒトラーもA型で、独裁者にはA型が多いらしい。





㉝明智日向守光秀(あけち ひゅうがのかみ みつひで)
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年齢設定:67歳
時代:室町・戦国時代末期〜安土桃山時代
属性:戦国大名・武将
用具:シャーペン
完成:2014年9月12日
モデル:本人




最強の戦略家・明智光秀

策謀の達人」明智光秀。
光秀と信長は似た者同士だったと思う。
よく信長と気質が会わなかったのが本能寺の変の遠縁といわれるが、
光秀は情緒的な人というよりも、信長並みの合理主義者だった。
だからこそ、信長が最も信頼していたのは光秀だった。
もちろん実際はイジメなんてなかった。だが、その光秀に裏切られた。

本能寺の変の黒幕は光秀だけではない。
実行したのが光秀なだけで、その動機も決して個人的なものではない。
信長は四国攻めで長宗我部元親を倒す計画があったが、
光秀と元親は親戚だったので、必然的にそれは明智氏(土岐氏)の滅亡を意味した。
本能寺の変により、四国攻めは阻止される。


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ワシは信長様より、一族を愛する」と思ったのだろうか。
光秀は軍事・政治・経済など全てにおいて優れていた武将だった。
とんでもなく優秀な人物で、光秀の軍の強さは織田家臣の中で随一だった。
策謀の達人といわれているが、それは戦国武将としては褒め言葉だ。

私は光秀の気持ちがわかる気がする。
上司への忠誠心や期待が強すぎるとある日、それが一変して反転し、
怨恨や反逆心に変わってしまうこともある。




冴えてる老将・明智光秀

光秀においては特に顔のモデルはいない。
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意外かもしれないが本能寺の変の当時、光秀は67歳の老人だった。
50代説もあるが、戦国時代は元気なじいちゃん武将が多かったので不思議は無い。
老人になった光秀も頭はキレッキッレで、信長から多大な期待を集めていた。

基本的に肖像画の顔を老けさせて描いたが、老人の顔は描きなれていなかったので、
本能寺の変 431年目の真実の著者であり、光秀の子孫の明智憲三郎氏の顔を少し参考とした。


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顔の骨格は比較的、若い頃の光秀の肖像画(補正版)を元にしている。
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光秀は頭蓋骨が大きく、額は広い。
衣装はこの肖像画と同じ模様の素襖を意識している。




珍しいヒゲ無し武将

不思議なことなのだが、この肖像画をみる限り光秀は、
戦国武将としては珍しくヒゲが生えていない。



元の肖像画をみてもヒゲの形跡がない。
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当時はヒゲ=男のシンボルぐらいのもので、大体の戦国武将は生やしていた。
江戸時代に描かれた、若年の頃を描いた、出家した後に描かれたもの以外なら、
通常、ヒゲは確認できるが光秀はヒゲが薄かったのか。
それとも肖像画がボロボロなので確認できないだけか。
だが私の絵では一応、ヒゲは薄く描いておいた。


ちなみに、他の戦国武将では竹中重治(半兵衛)、池田恒興、島津義久、細川忠興、
小早川秀秋、豊臣秀頼などが肖像画でヒゲが確認でできない。
だが、秀秋や秀頼は20歳前後で死んでいるのでヒゲがなくてもおかしくない。
19歳の私でも、体質的にヒゲらしいヒゲが生えて来てない。




天海=明智

明智光秀=天海説という有名な話がある。
天海というのは徳川家康の側近になった謎の人物だが、その正体が光秀という。
光秀は山崎の戦いで秀吉に殺されずに生き延びて、徳川幕府に貢献したらしい。
私はこの説を支持しているし、明智憲三郎氏の説に基づいても説明可能である。
なぜなら、家康は光秀に恩があるので身辺保護したと考えられるからである。

本能寺の変の時点で光秀が67歳だとしたら年齢的に厳しい気もするが、
光秀本人ではなくても、光秀の息子か弟が天海を受け継いだ可能性もある。
天海=明智家の人間だったことは十分にありえる。




光秀の脳診断

光秀も信長と同じく、ささ男(インプット=左脳、アウトプット=左脳)だろう。
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㉞徳川三河守家康(とくがわ みかわのかみ いえやす)
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年齢設定:39歳
時代:室町・戦国時代末期〜安土桃山時代
属性:三河の戦国大名・武将・征夷大将軍
用具:シャーペン
完成:2013年9月20日
モデル:中尾彬




デンジャラス家康

危険人物」徳川家康。
信長、秀吉、家康。この三英傑の中で最もスゴかったのは、やはり家康だろう。
最終的に天下をとって、300年の徳川政権の礎を築いたというのもあるが、
もはや家康は戦国武将の域を超えて、超人的な政治家となった。
それだけに危険人物だったのだろう。

事実、家康は秀吉の死後には豊臣家を滅ぼしている。
信長と家康は仲が良さそうなイメージがあるが、
双方の父や祖父の代では、血みどろの戦いを繰り広げていた。
信長は以外と親バカで、やはり自分の跡は息子達に継がせたかった。
だから家康の台頭を許す訳にはいかなかったのだろう。


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実は幼少期に、尾張の大うつけ(愛知一のヤンキー)の悪ガキ・信長に、
人質時代のオタク・家康はイジめられていたというエピソードも残っている(笑)
家康は水が怖かったが、信長に頭から川に突き落とされたらしい(笑)
そう考えると本能寺の変はこの頃の因果応報だとも言える(笑)

もしも信長が、メジャーデビュー戦である桶狭間の戦いで負けて死に、
今川義元が天下をとって駿河幕府が開幕していたとしよう。
それでも家康は義元の重臣として活躍しながらも、
最終的にはアノ手コノ手を使って、家康が天下をとっていただろう。
歴史好きなら、そう容易く推測ができる程の人物が家康なのだ。




表情豊かな家康
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この家康はなんだか悲しそうな顔をしている。
だがこれも、家康の計算のうちという裏設定。
明智に救われたことで、怯えと安堵の表情を両方みせている。
このようにわざと感情を露にすることで、相手を安心させる。

だが家康は、本気で運が良かったと思っただろう。
家康のことだから、信長に殺されそうなことは気付いていたが、
まさか光秀から、救いの手を差し伸べられるとは思ってもいなかっただろう。
家康は「この果報と恩を無下にするわけにはいかぬ」と言って、
謀反を決心したのだろう。


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実は家康は元々、短気な性格だった。
無感情そうなイメージがあるが、激情型の性格だった。
だからこそ、家康は忍耐強さと気長さを身につけた。
急がば回れで、コツコツと詰めていく形で最終的に天下をとった。

家康はかなり無口だったらしい。
軽度の吃音症という説もあり、普段から寡黙だったのだろう。
だからこそ、心中を悟られないような威厳があったのかもしれない。
だが、狡猾で言葉巧みなタヌキというイメージ通り、
口数こそは少なかったが、口はそこそこ上手かったのだろう。


また本来ならば、礼儀的に烏帽子は被るものだが、
頭頂を晒している家康の絵は少ないので、あえてである。
頭を晒す=本性を晒すという裏設定も含んでおり、
織田をぶっ潰して、長野と山梨を奪い取る気満々の家康である(笑)



左が29歳の家康。見るからに危険そうな顔をしている(笑)右が晩年の家康。
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明らかに若い頃の家康の方がヒゲは長いが、これは時代の流行だろうか。
アゴヒゲに関しては晩年、ほぼ無くなっている。
今回の私の肖像画は39歳の家康なので、
この二つの肖像画の間をとったぐらいのヒゲの長さにしてある。




ネジネジ武将!?

前作の藤木直人がモデルの29歳の家康。
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今作はそれから10年後の家康だが、
色々あったのか、少し太っている(笑)



晩年の家康の顔は、中尾彬に似ている。
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何かのイベントで家康のコスプレをする中尾彬。これは似すぎだ(笑)
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直衣にネジネジを合わせるという、奇抜なファッションを展開(笑)
前回の29歳の家康のモデルはイケメン・藤木直人を起用したが、
中尾彬も若い頃は爽やか系イケメンだった(笑)



小出恵介っぽい。
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今回、家康のモデルにしたのは33歳の時の中尾彬。
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この光と影の加減が、家康の裏表のある表情を出せるからである。




意外に洋風な家康

この西洋甲冑(南蛮具足)は誰のものかお分かりだろうか?
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一般的なイメージからすると信長っぽい。だがこれは家康のものだ。
先述の通り、信長の時代には海外モノがあまり入って来ておらず、
武将が西洋甲冑を用いるようになったのは、むしろ信長以後である。
家康は質素で純和風なイメージがあるが、
実は新しいモノ好きで、海外モノを多く取り入れていた。



それに家康は鉛筆を用いただけでなく、なんとメガネをかけていた。
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家康は日本初のメガネ男子だったのだ。



イメージ(笑)
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家康の海外戦略

徳川幕府というと鎖国のイメージがあるが、
鎖国が始まったのは家康の息子の徳川秀忠の時代からで、
むしろ家康の時代は、活発に海外との貿易を行なっていた。
家康は内向的ではなく、信長よりも外向的だったのだ。

信長は黒人の弥助をボディーガードとしていたが、
家康はイギリス人のウィリアム・アダムスを外向顧問として側近においた。
しかも三浦按針という名前をつけて、武士にするぐらい気に入ったそうだ。


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アダムスはリーフデ号という船に乗ってやって来たが、
そこにあったプレートアーマーを南蛮具足に改造して自らや重臣らが使ったり、
積まれていた大砲は、関ヶ原の戦いで大活躍したそうだ。

家康はエリザベス女王と仲が良かったので、
大砲を提供して貰っていたという説もあるぐらいだ。


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家康はメキシコに使者を送ったり、伊達政宗のスペイン使節を許可したりした。
それだけでなく、家康がタイに送った山田長政という人物は、
日本人傭兵、日本人町の頭領、王朝の高級貴族にまでなった。
更にタイのとある地方の王様のような立場にもなったという。
事実上、日本の徳川の回し者がタイを仕切っていたようなものだ(笑)


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家康の脳診断

家康は、さう男(インプット=左脳、アウトプット=右脳)だと思う。
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ドライで柔軟なあやつり師、まさに天下を操った家康に相応しい。
納得しやすい解決策を導き出すことで、
人に意見を求められることが多く、一目置かれる存在
ある意味小心者」、「オタクの素質も備えている
というところが家康と当てはまる。





㉟細川兵部大輔藤孝(ほそかわ ひょうぶのたいふ ふじたか)
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年齢設定:48歳
時代:室町・戦国時代末期〜安土桃山時代
属性:戦国大名・武将・歌人
用具:シャーペン
完成:2013年9月20日
モデル:細川護煕




細川流処世術

天下人を見極める」細川藤孝。
細川幽斎の名の方が有名だろうか。
信長、秀吉、家康が天下をとることを予測し、この面々に巧みに寄り添っては、
いずれも気に入られて、常に堅実な立場を貫いている。
かなり優秀な人物でもあったし、ハンパなく世渡り上手だ。

だが、本能寺の変に関しては、
信長を見限り、友である光秀も見限っているので、
ある意味、本能寺の変の一番の裏切り者であるとも言える(笑)
藤孝は「信長様や光秀には申し訳ないが、我が道をゆかせてもらう
と言ったのだろうか。


どうも細川家の人間は、次の天下人を見極めて、
その天下人を支えることで出世し、うまくいくパターンが多い様に思う。
ちなみに私の家系と、細川藤孝はほぼ無関係と言って良い。
足利義満を支えて、室町幕府No.2にまでなった細川頼之も同じである。
逆に細川政元のように、自ら天下人になれば破滅型になる(笑)



そして、藤孝の子孫で天下人(総理大臣)になり破滅した人物がいる(笑)
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この細川護煕、細川藤孝と顔がソックリなのだ(笑)
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特に目と鼻なんか同じじゃないか。血の繋がりをリアルに感じる。
両者とも芸術家タイプであり、超文化人である。



『へうげもの」というマンガでも、藤孝の顔はモロに護煕である(笑)
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細川護煕に関して面白いジョークがある。
細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、
戦争でかなり焼けてしまったんですよ。
いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね
私もこんなことを言ってみたい(笑)



私の絵も本人&細川護煕の顔をモデルにした。
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もちろん出家前なので、ヒゲは生やしていたと思うが、
似合いそうになかったのでやめておいた(笑)
文武両道な藤孝だが、やはり武将というより文化人のイメージだ。



映画『利休』にカメオ出演し、なぜか織田有楽斎を演じる殿様(右)
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藤孝はこんな感じだったかもしれない。


藤孝の脳診断
…不明(笑)





㊱羽柴筑前守秀吉(はしば ちくぜんのかみ ひでよし)
羽柴筑前守秀吉.png

年齢設定:45歳
時代:室町・戦国時代末期〜安土桃山時代
属性:尾張の戦国大名・武将
用具:シャーペン
完成:2013年9月25日
モデル:田村淳




ハイパーメディアクリエイター・秀吉

全ての情報を把握・操作」羽柴秀吉。
この説に基づけば、秀吉は黒幕的な存在として語られている。
私も今回の秀吉は、暗闇から目を光らす秀吉のイメージにした。

秀吉の情報操作力はハンパない。未だに日本中が騙されているほどだ。
天下をとった後、軍紀物などでウソの情報を日本中に流した。
それは光秀が、個人的な恨みで謀反を起こしたという過小評価や、
信長が残虐な人物なので、討たれても仕方がなかったという悪評である。

だが秀吉の判断は、統治者として正解である。結果、事変の混乱を見事に丸く治めている。
ある意味、秀吉は信長への謀反を見て見ぬ振りをしていた訳だが、
藤孝や家康にこのことは黙っておくとして匿い、それぞれの顔を立てている。


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秀吉は最強の調整役だろう。
細川家からの情報提供により、秀吉は迅速に中国地方から京都に進軍し、
明智と戦い勝利した。後に中国大返しと山崎の戦いとして歴史に残る。
秀吉は「混乱期は皆、心のどこかで騙されたいと思っとるんじゃ」と言ったのだろうか。




愛すべき天下人

また統治者が前の統治者を悪評するのは、歴史のお決まりパターンである。
そうしないと自らの正当性が揺らぐからである。
事実、秀吉は信長のことを尊敬していた。秀吉の政策もほとんど信長の受け売りである。
秀吉は常に「信長様じゃったら、ここはどうするかのぉ?」と自問自答していたと思う。

秀吉は織田政権を奪い取っているわけだが、
歴史をみてもやはり、信長の息子より秀吉の方が天下人に相応しかったのだろう。


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今回の秀吉像は前作を画像加工しただけだが、色を反転させて印象を一変させている。

私が一貫して秀吉ファンなのは大阪人だということもある。
幼少期から最も好きな三英傑は秀吉だった。
何か親近感が湧くというのもある。閣下が信長なら、私は秀吉である(笑)

晩年の秀吉はよく耄碌したり暴君になったと評されているが、
客観的に見ても私はそれはないと考えている。常に判断力はあったと思われる。
なぜならば徳川幕府により秀吉の死後にネガティブ・キャンペーンが行なわれたからだ。
だから、大河ドラマで秀吉が暴君として描かれると悲しくなる(笑)


そして私の絵の秀吉のモデルは、同じく私がファンの田村淳。
秀吉と淳はかなり共通点が多く、前回もそれを列挙した。


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だが2013年9月以降、あらたな共通項が加わった。
それは「妻が人格者」ということである。
それまで結婚はしないと言っていた淳が結婚してかなり衝撃を受けたが、
その奥さんがかなりのいい妻のようで、人格者と評されている。

また秀吉の正妻である、おね(高台院)も、
大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」と評されている。



こぶごぶ。
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秀吉の脳診断

秀吉は、うさ男(インプット=右脳、アウトプット=左脳)だろう。


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一旦ココロを許せばとことん面倒見がいい」は、秀吉の人を活かす度量の大きさを表し、
無礼なふるまいをする相手には嫌悪感を示してやりこめたり、一度嫌ってしまったら絶縁
というのは、古参の部下でも度が過ぎる失敗をすれば、
構わず処断するという秀吉の厳しさを示す。

好奇心旺盛で、あれこれ夢見るロマンチスト。いろんなことにチャレンジするのが好き
場の空気をつかむのが早く、盛り上げや会話もスムーズにこなす
これもまさに秀吉のイメージと一致する。


また血判状から秀吉の血液型はO型だったことが判明している。
実際の性格からもまさにO型的性格であることがわかる。




うさ男は天邪鬼!?

実は私が田村淳を観察した結果、彼もうさ脳であることがわかった。


手を組めば右の親指が下になるので、右脳インプット。
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腕を組めば左腕が下になるので、左脳アウトプット。
腕.png



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しかも淳はO型である(笑)
やはり、性格に共通点が多いと思っていたがそういうことなのか。

実は私も、正真正銘うさ脳のO型である(笑)
脳診断の性格でもほぼ完全に一致していると言っても良い。
私は一度、心を許したやつとはとことんベタベタするぐらい仲が良いし、
逆に少しでも無礼な態度を見せると友人であっても平然と絶交する。
あえてKYなこともするが、それは空気を読むのが得意だからである。


秀吉、淳、私に共通する性格は、ズバリ「天邪鬼」である。
秀吉は人と同じに振る舞うことを嫌う傾奇者だったらしい。
コスプレ茶会などを開いて、まず人がやらないことをやった。
淳もよく自身の性格を天邪鬼と言っており、
欲しがる人には与えず、欲しがらない人に与えたくなるらしい(笑)

私は周りがマジメならふざけるし、周りが不真面目ならマジメにやる(笑)
常に「お前らとは違うんや」という意識を持ちながら生きてる気がする(笑)
やはり同じタイプの人間なので、秀吉と淳には共感できるのだろう。




ネズミ顔の秀吉

これは羽柴時代の秀吉と伝えられる肖像画(京都府光福寺蔵)である。
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だが、私はこれは秀吉ではないと思う。
秀吉は付け髭をしていたぐらいヒゲが薄かったらしいが、
この肖像画の男はどう見てもヒゲが濃い。それに明らかに秀吉と顔が違う。
秀吉はネズミ(実はサルではない)と呼ばれていたが、この絵の男はゴリラみたいだ。
これまで秀吉を3回演じて来た竹中直人に似てる気がする。



よく知られている肖像画はヒゲが薄く、まさにネズミの風貌だ。
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淳が歳をとったら秀吉みたいな顔になりそう。
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戦国武将ソックリ芸人

ちなみに秀吉の家臣である、黒田孝高(官兵衛)と松本人志は似ている(笑)
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これはシンクロ率高すぎである(笑)



松っちゃんは黒田官兵衛が大好きなことで有名。
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松っちゃんには是非、自分の映画で官兵衛役を演じてほしいものだ。



そしてその息子、黒田長政とメッセンジャー黒田も似ている(笑)
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ちなみに官兵衛=「カンベエ」というが、実際は「カンピョウエ」だった。
そもそも兵衛をベエと読むようになったのは江戸中期からで、
当時は兵衛はヒョウエ、ビョウエ、ピョウエと読むのが普通だった。
官兵衛は秀吉から、カンピョーと呼ばれていたらしい。
彼はキリシタンだったので、ローマ字で自分の名を「kwanbyoue」と表している。

おそらく彼の師匠である竹中半兵衛も、ハンビョウエと発音したのだろう。
ちなみに、官兵衛と半兵衛は秀吉の軍師だったと言われているが、
戦国時代に「軍師」はおらず、二人とも軍師と言われたことは一度もなかった。
軍師というのは自らは戦わない文官であり、大将に助言する専門職であった。
いわば「戦略アドバイザー」である。古代中国の諸葛孔明なんかそうだ。
だが、官兵衛も半兵衛もれっきとした戦国武将である。


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二人が軍師と呼ばれたのは江戸時代からで、
彼らは軍師ではなく、策略に長けた秀吉のいち重臣の戦国武将である。
戦国武将は専門職ではなく、戦争・政治・文化を行なう何でも屋である。

また、秀吉は天下をとってからは、官兵衛に世話になったにも関わらず、
官兵衛のズバ抜けた頭の良さを警戒して、冷遇したという話をよくきく。
だが、実際の官兵衛は極めて説教好きな性格で、
秀吉にもことあるごとにキリスト教の話をしたそうである(笑)
キリスト教を警戒し禁教令を出した秀吉にとっては、ウザいに決まっている(笑)
官兵衛がキリシタンだったからこそ、秀吉に警戒されたのだ。




三英傑の個性

信長、秀吉、家康。三英傑の身長もわかっているらしい。
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まさしくイメージ通りで、こんな感じの身長差だったのだろう。
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それぞれの子ども(実子)数は、
信長→24人、秀吉→4人、家康→16人。

好きな女のタイプは、
信長→子どもが生める女性、秀吉→美女でお嬢様、家康→出産経験のある女性。


このことから信長は精力絶倫と言えるだろう(笑)
秀吉は女好きで淫乱だったのは事実だが、子どもが出来にくい体質だったよう。
家康は堅実な方法で子どもが産める女性を選んでいた訳だが、
70代の頃に16歳の側室を迎えたらしい(笑)
それに家康は腹上死したという説すらある(笑)





漫画「センゴク」実写化キャスト予想


私が今、本気で揃えたいと思っている『センゴク』の実写化をイメージしてみた。
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仙石権兵衛 / 窪田正孝
織田信長 / 豊川悦司
羽柴秀吉 / 田村淳
竹中半兵衛 / 早乙女太一
明智光秀 / GACKT
徳川家康 / 鈴木亮平


ここでも秀吉は淳だ(笑)
顔が似ているキャストを選んだことはもちろん、
センゴク光秀は、残忍だが魅力的な個性的なキャラクターで、
それを気持ち悪くならずに演じれるのはGACKTしかいないと思ったからである。
豊川悦司は既に大河で信長を演じている。


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作者の宮下英樹氏の偉大なる創意工夫と、絶妙なさじ加減が光る作品で、
センゴク、センゴク天正記、センゴク一統記。今年で連載10年を迎える歴史漫画である。
最も史実に忠実な戦国漫画であるのだが、通説に疑問が残る場合は、新たな新説も描いている。
ある意味、史実より正しい漫画かもしれない。
しかも登場する武将達が、史実および私のイメージと完全に一致しているのだ。

仙石秀久(権兵衛)という、1000石の領地をもつ戦国武将が主人公である(笑)
正直、実写化は不可能なぐらいに迫力のある漫画だが、
部屋にスペースがあるならば、全巻集めたい(笑)


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ということで戦国時代編はここまでだが、
まだまだ歴史人物絵画はあるので、執筆を進めることとする。
posted by 細川大将軍 at 23:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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